コラム「競技数学」 [最終更新日:2010年8月14日]
現代数学社「理系への数学」誌の巻頭言「数学戯評」
(2010年8月号)より

競技数学
米谷達也

 小・中・高校生が学ぶ算数・数学をある観点から分類してみたい。一つの観点は「学校数学(算数)」と「受験数学(算数)」で,これらが似て非なるものであることは,現実として否定できない事実だろう。文科省は昔から「過度な競争による弊害」という単語を使いながら受験を悪とみなしてきたが,受験に携わる本人・親・塾予備校関係者たちは,受験(競争)を否定する文科省こそ学力低下という悪の根源であると考えている。
 上記の2つの類型に該当しない,学徒にとっての第3の数学として「競技数学」がある。数学オリンピック/広中杯/算数オリンピックおよびこれらのジュニア大会などには,未来ある若者が挑んでいる。私の教え子たちの何人かが大会に参加していることもあり,今日はそのトライアル(予選)大会の会場を訪問してきた。大会に参加している子供たちの眼は,引き締まり,輝いている。かつてマスコミ等が垂れ流してきた,かわいそうなガリ勉くんのイメージとはほど遠い。私は中等教育の現場に立つ者として,学力の高い子供たちこそ目が生きている,ということを大声で主張したい。
 こうした競技数学が日本に根付いてきたのは,ここ
20年ほどのことである。筆者が学生の頃にはこのような制度はなかったので,学生たちの「他流試合」の場はもっぱら,塾・予備校の模試/通信添削講座/受験雑誌の応募問題の場に限られており,ここで実名や筆名を載せることで,自分の実力を確認していた。とはいえ,これらの場は本質的に「受験数学」のステージであって,ここで論じようとしている「競技数学」とは異なる範疇にある。
 そもそも「学校数学」には,学んで修得すべきカリキュラム(学習指導要領)があり,その達成度を測るのが学校のテストである。「受験数学」の場合は,カリキュラムの達成度を測るという絶対評価の考えに立つもの(代表例は大学入試センター試験)と,競争試験としての相対評価の考えに立つものとが並立しているが,いずれも修得すべきカリキュラムの存在を前提としている。カリキュラムで学んだ道具を使って解く,という暗黙のルールの中で試合が進んでいく。
 これに対して「競技数学」では,カリキュラムの存在は斟酌・考慮されるものの,それはルールではない。たとえば数学オリンピック大会の場合,大学教育を受けていない者が参加資格をもつ。数学は世界の共通言語なのであって,ここには文科省が口出しをする余地がない。したがって,競技数学は,使う道具に縛りのない,自由な闘いの場なのである。そういえば,メキシコにはルチャ・リブレ(自由の闘い)という華麗なレスリング・スタイルがある。ルチャのレスラーたちは空中殺法を魅せてくれるのだが,競技数学もそれと似ている。メダルを競う選手たちが勝負をかけるような問題は,頭を柔らかくした自由な発想のもとで初めて,自分の手の中に降りてきてくれる。学校で教えてもらった方法で解けることは,全く保証されない。全力で闘い抜いて解けたときの爽快感は,格別である。
 競技数学は,参加することに意義があり,楽しむことができる。スポーツのような数学である。負けると少し悔しいけれど,現世での不利益は全くないので,純粋に楽しめる。試合に参加している教え子たちを観察しての実感だ。
 これまで公教育の一部には,部活動(運動系・学芸系を問わず)で勝ち上がると賞賛するが,受験・進学に対しては「空気が違う」扱いがあった。おそらく,個人の立身出世との関連性が高いからだろう。学校教育の場では,部活動をがんばる子は偉いが勉強ばかりしている奴はダメだ,と言わんばかりの価値観が支配するケースもしばしば見かける。原理主義的不寛容には,弊害が容易に想定されるのだが。
 最近私は,ある私立学校で「競技数学部」の立ち上げに関与できる機会を得た。自由な発想力を磨いた若者を輩出して,日本の危機を切り拓いてくれることを期待する。


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