コラム「担任力」 [最終更新日:2010年6月22日]
現代数学社「理系への数学」誌の巻頭言「数学戯評」
(2010年5月号)より

担任力
米谷達也

 去る2月に国公立大学の前期入試が行なわれた.私はいくつかの教育機関で受験指導をしているので,各地から「試合」にやってくる選手(受験生)たちのセコンドとして,本郷・駒場の正門前に応援に出た.多くの先生方が激励に訪れるので,再会の場にもなる.
 出会った先生の中に,県立K高校のA先生がいた.西日本の地方都市の高校で,担任をしている.社会的には当該県のナンバーワン校とは考えられていない.高校入試の倍率は1.0倍そこそこしかない.そのなかでA先生は,生徒たちを高校入学から3年間,担任として率いてきた一クラスから文系・理系合わせて9名が一次試験をパスして東京大学の受験資格を得た,というのだ.この数字の意味について,ちょっと立ち止まって,想像力を働かせてほしい.
 世の中の進学指導には「現役主義」とかそれに類するキーワードが溢れている.経済状況はよくないので,スポンサー(保護者)の目にも魅力的に映る.ところが現実には,多くの大学入試は,すでに崩壊している.選抜として機能していないのだ.
 競争のない環境では,人は潜在力の目一杯まで才能を発揮することは困難である.これが私の人間観だ.競争を否定する文教政策のもとで,学力低下は止まらない.おそらく,全国で行なわれる大学入試のおよそ半分はメルトダウン(溶融)しているので,進学の時点で鍛えられていない大学生が増えている.鍛えていない人材を雇用するほど,産業界には余裕がないから,自己研鑽の機会を与えられなかった学生は,いずれは路頭に迷うことになる.
 かつて,他の学校のある担任が,担当クラスの生徒たちのほぼ全員を大学に進学させたと,胸を張って校長に報告した.校長曰く,馬鹿野郎と一喝である.クラスの全員が,潜在力の限界まで力を出し切って,進路を勝ち取った,などということがあるはずがない.中途半端な状態で妥協させる指導をしていないか,胸に手をあててみろ,顔を洗って出直して来い,という校長の論理だ.闘う校長に同感.
 冒頭のA先生の話に戻る.実は私は,K高校を何度か訪れて,生徒たちにも接している.そこで見たのは,先生方(担任だけでなく,進路指導主事や教科を含めたチーム)の血の滲むような闘いぶりだ.
 まず,生徒たちとの闘い.高校入試倍率1.0倍で迎えた新入生は,平和ボケの状態にあるので,彼ら自身の学ぶ闘魂を引き出す必要がある.同時に,保護者との闘い.そんなにまでして勉強させなければならないのか,どうして東大なのか,地元の国立じゃダメなのか.やはり田舎なのである.さらに学習指導要領との闘い.県立高校は,都市部の中高一貫校と比較して,進度でもハンディを負う.数学に限っても,高校入学時点で1年分の遅れを背負う.しかも,ゆとり教育政策の後遺症で,かつて中学での学習範囲だった部分まで引受けさせられる.
 このような三重苦のなか,担任は闘う.日常は都市部で指導をしている私からみると,同じ土俵で試合をしていること自体が驚きだ.K高校では,志望校に惜しくも届かなかった生徒には,浪人させる.専攻科という寺子屋を併設している.県から有為な人材を輩出するために,公費を財源とするが,最近は圧力がかかり,専攻科が潰されそうだと仄聞している.
 浪人をして学び直せば必ず「こんなことも知らなかったのか,あのとき間違って合格していたらと思うとぞっとする」と感じるときが来るはずだ.無知の知である.結果は,納得いくまで闘い抜いたものか,そうでなければ胸を張って浪人しろ,と言える教師は,生徒の将来に一定の責任を負う覚悟で向き合ってくれる教師である.
 逆風の中で闘う担任&闘う校長が,うちの子たちを助けてあげて下さい,と声をかけてくれる.類は友を呼ぶのだ.私のあらゆる関与先で,担任力を磨いたスーパー教員が闘っている.日本の中等教育は,まだ捨てたものじゃない.

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