海を見る自由 [最終更新日:2011年5月27日]

震災から4日後の本年3月15日,立教新座高等学校の渡辺憲司校長先生による
卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。
と題する文章が同校ウェブサイトに掲載され,反響を呼びました。
校長はその中で「海を見る自由」について論じ,船出する卒業生たちに,自己を直視することを説いておられます。

(引用はじめ)
 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。 「今日ひとりで海を見てきたよ。」 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
(引用以上)

日本国憲法には書かれていない,法律家は誰も論じたことがない「海を見る自由」。
これまで論じられてきた自由の中では「学問の自由」の近くに位置する自由。
真理探究の営みを,権力が邪魔をすることは許されない。
このことに留まらない,精神の自由を包含している「海を見る自由」。
「時間を自分が管理できる」という価値。
自律的に行動することと,自己研鑽を積んで成長することとの間には,関連がある。

数理哲人は今日から数日,出張のため信州に滞在している。
そこで,私も,ささやかながら「海を見る自由」を行使してみた。

▼日本海・直江津にて
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